その時の俺は、ちょうど部活のことで悩んでいた。俺が所属する演劇部は文化祭でやる演目の練習に励んでいて、みんな一生懸命頑張っている。俺も頑張っているつもりだけど、どうも役に入り込めないというか、練習に身が入らない日々が続いていて教室でため息を吐く日々を送っていた。
「遊矢、練習頑張るのもいいけど行き詰まってるなら少し休んだら?」
同じく演劇部に所属する幼馴染み、柚子がそう言って半ば強制的に部活を休まされるぐらいに、態度にも顔にも出ていたようで。かといって部活を休んだら休んだで暇を持て余してしまって、結局校庭のベンチでひとり台本を読んでいた。
「あれ? 遊矢じゃん! お前も部活休みなのか?」
台本の文章を追いかけて、またぐるぐるとしてきた思考に急に刺さった声に少し驚いて、頭を上げる。
「遊馬か……お前『も』ってことは、卓球部休みなのか?」
「おう、顧問が出張だってさ」
ちょっと疲れてたからラッキー、なんて言いながら近づいてくる遊馬に、隣にどうぞの意味を込めて自分のカバンを避ける。 遊馬は歳が俺より一つしただけど、もう小さい頃からの仲だから学校でも敬語なんて使ってこない。使われたとしても、たぶんむず痒くて耐えられないだろうな、とは思うけど。
「演劇部は休みじゃないんだけどさ……柚子に半ば強制的に休まされた」
「あー、遊矢最近元気なかったもんな。やっぱり次の役のことで悩んでるのか」
「そうなんだよー……なんかこう、掴めてないのもあるんだろうけど、役に入り込めない感じがして練習も焦りが出て上手くいかなくてさ……」
他の人にはあまり話さないけど、遊馬にはなんだか不思議な力があって、ついつい悩み事を話してしまう。何でも受け入れて、時には一緒に悩んでくれたり、そっと背中を押してくれたり。噂では最近、うちの学校では不良で有名な神代先輩も彼の影響で少し丸くなってきてるらしい。将来はカウンセラーとか向いてそうだ。
しばらく相槌を打ちながら俺の話を聞いたあと、それならさ、とベンチから立ち上がりながら遊馬は口を開いた。
「今から俺の家に来いよ!今日はちょうどいいのが見られる日なんだ」
「遊馬の家で、いいもの?」
遊馬の家、というのは一緒に暮らしている彼の親戚のお兄さん、不動遊星さんがやっているお店のことだ。少し落ち着いた雰囲気の喫茶店で、遊馬と帰ることの多い俺は頻繁にお邪魔していた。
「なんか悩んでる時はいつもと違うことに触れた方がいいんだぜ!」
「そういうもんかなぁ……」
とはいっても、急に部活を休まされたので時間は余っている。このまま台本を読み続けていても何か解決する訳では無い。カバンに台本をしまって、俺も遊馬に続いて立ち上がった。
学校から少し歩いた住宅街の入口にある遊馬の家は「スターダスト」という名前のカフェだ。いつも来るときはだいたいが学生達で賑わっているのだけど、今日はまだ部活動の時間ということもあってか店内には遊星さんしかいないようだった。
「ただいまー!」
「お邪魔します」
遊馬の元気のいい帰宅の合図に続くように、俺も挨拶をする。いつもと少し違う雰囲気の店内の様子が新鮮だ。
「お帰り、遊矢もよく来たな。今日は部活、休みなのか」
「俺は休み! 遊矢は強制的に休まされたんだってさ」
話しながらカウンターの端、いつもの定位置に座り、ネクタイを外してシャツのボタンを二つほど外し出した遊馬の隣に俺も座る。ここに座れば完全にオフモードになれる。俺はだらんとカウンターに突っ伏してリラックスする姿勢になった。
「強制的に……? 体調でも悪いのか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……文化祭でやる劇の練習で躓いてるというかなんというか……」
なんか練習に身が入らないらしいぜ、と遊馬が俺の話しに次いで補足説明などをしているのを聞きながら、頭を上げて顔だけは遊星さんの方を見る。慣れた手つきでカフェオレを作る遊星さんは、やっぱり恰好いい。というか、何をしてもこの人は様になるから凄い。
「なるほど……ということは遊馬は遊矢にアレを見せるために連れてきたんだな」
「そうそう、悩んでる時は気分転換も必要だろうからな!」
「アレ、って何なんですか?」
遊馬に『いいものが見られる』と連れてこられたのは確かだが、まだそれが何かを説明されていないため、頭にはクエスチョンマークしか浮かばない。遊星さんはそんな俺に微笑むと、カフェオレを飲んでいれば直にわかると言って、カウンターに二人分のカフェオレを置いた。どうやらこの目で確かめるまで、回答はおあずけのようだ。仕方がない。なら少しペースを早めに飲んで、カフェオレのお代わりでもしてしまおうか。
しばらく今日の授業中の出来事、休み時間に起きた遊馬と神代先輩のコントのようなやり取りの話を聞きながら過ごしていると、カランカランと店の玄関の方からベルの音が鳴り響いた。
「お邪魔しまーす」
「あ、きたきた。十代さーん!」
入ってきたのは赤いカーディガンが印象的な、遊星さんと同年代ぐらいの男性。その肩にはギターケースを担いでいる。
「十代さん、いらっしゃい」
「おー、今日もスペース貸してもらうぜ!……お、今日は遊馬の友達もいるんだな」
元気よく挨拶をしながら入ってきたその人は、慣れた動作でギターケースを店の奥にある小さなステージに置くとカウンターに戻ってくる。俺の隣の席に座ると、いつもの、オーダーをした。それを聞くと、遊星さんは何も言わずにコーヒーを煎れ始めた。
「俺は遊城十代、よろしくな」
「あ、えっと、榊遊矢です。よろしくおねがいします」
突然の挨拶に少し戸惑いながらも、どうにかこちらも挨拶を返す。どうやら気さくな人らしい。
「今日は十代さんが珍しくこの時間から来るって連絡きてたから、遊矢連れてきたんだぜー!」
「さっすが遊馬! 俺の宣伝隊長だな!」
十代さんが無邪気な笑顔で遊馬の頭を荒っぽくガシガシと撫でると、遊馬は嬉しそうに笑う。……なんだか凄く、兄弟みたいだなぁと微笑ましく思った。
確かに俺は遊馬より一つだけ年上ではあるけど、どちらかと言えば同級生のような感覚でお互い接しているため、遊星さん以外に弟っぽさを出しているところを見ることはあまりない。俺自身には兄弟がいないのもあって、目の前で繰り広げられる無邪気なやり取りが、少し羨ましい。
「さて、じゃあ早速リハーサルも兼ねて何か歌うか」
「今日はだいぶ早く開始するんですね」
「せっかく遊馬が友達も連れてきてくれたしな。三人だけに、先に新曲聞かせてやるよ」
そう言うと彼はカウンターから離れ、ギターを取りに行った。ケースからギターを取り出し、ステージへと向かう。小さな椅子を中心に寄せるとそこに座り、ギターの音色を確認するかのように数回、ポロンポロンと鳴らした。
そしてひとつ息を吸うと、演奏を始めた。
――歌が、生きている。
店内に響き渡る声を聴いた瞬間、そう感じた。彼が音に乗せるすべての言葉ひとつひとつが、まるで生きているように心に飛び込んでくる。感情が。情景が。歌に込められた全てのものが心にそのまま入り込んできた。
そしてそれを歌っている十代さんの表情は、とても楽しそうで。見ているこっちまで笑顔になってくる。
俺達が聴き入っていると、歌声が止んだ。
「どうだ? 今回の新曲」
「すっごくいい! こっちまでかっとビングだぜ!」
遊馬の素直な感想を聞いて、十代さんは満足気に笑う。俺も何か感想を言いたかったけど、言いたいことが多すぎて何を伝えれば良いのかがわからない。
「遊矢は、どうだった?」
どうしよう、と悩んでいると十代さんの方から声をかけてくれた。とりあえず、思ったことを全部言ってしまおう。綺麗に言葉を並べたって余計ごちゃごちゃするだけだ。……こういうとき、本当に遊馬の素直さが羨ましいと思う。
「凄く、良かったです。歌が上手いのもなそうなんですけど、心に響くっていうか……歌が、生きてるみたいで」
思ったことをとりあえず並べただけの、拙い感想になってはしまったけど伝わったようで。十代さんは俺の感想を聞くと笑みを浮かべながら近づいてきた。
「歌が生きてるなんて初めて言われたぜー! 嬉しいよ」
「うわっ!」
嬉しさ全開、といった感じの弾んだ声を出しながら俺の目の前に来ると、先ほど遊馬にしたように、俺の頭を荒っぽく撫でた。少し驚いて声をあげてしまったけど、嫌だとは思わなかった。……むしろ、嬉しいと思っていた。
「あの、十代さん」
「何だ?」
「十代さんはどうして、あんなに心に響く歌が歌えるんですか?」
それは彼の歌を聴いて、一番疑問に思ったことだった。歌は演劇と違って、台詞を言うわけではない。文章を音に乗せてそれから違和感のないように紡いでいくものだ。だからこそ、演劇よりも感情を込めるのは難しいと思う。なのに目の前のこの人は、それを成し遂げている。それがどうしてなのか、知りたかった。
「どうして、って言われても、あんまり自分では感情を出すことを意識はしてないんだよな」
返ってきた言葉に、目を見開く。意識していないのだとしたら、意識せずにそれを表現してしまえるのだとしたら、根本的な性質の差なのだろうか。俺がそう思っている間に、十代さんは言葉を続ける。
「うーん、なんて言ったらいいかな。歌詞に成りきる、って言ったらいいか」
「歌詞に……成りきる」
「俺は自分で曲を作ってるから自然にそれができてるんだと思う。歌詞をじっくり読んで、目を閉じてから歌詞が表現してる風景をイメージするんだ。この人物がどういう人間で、どういうことを思って、何を伝えたいのか」
歌詞に成りきるっていうか、歌の主人公に成りきる、が正しいかな。そう言って十代さんは苦笑した。そんな十代さんを見上げながら、俺は『歌に成りきる』という言葉を頭の中で繰り返し呟いていた。
そして、十代さんの歌を聴くまで俺の中でぽっかりと空いて中々嵌るものがなかった部分に、かちりとその言葉が嵌った。まるで、パズルのピースみたいにしっかりと。
「……十代さん、ありがとうございます」
「え、俺何もしてないぜ?」
「ちょっと部活のことで悩んでたんです。でも、今の十代さんの話でちょっと解決したから……ありがとうございます」
キョトン、としている十代さんにお礼を言いながら頭を下げる。彼は少し、そのまま固まっていたけど俺が頭を上げる頃には笑顔に戻っていた。
「ま、あの答えが助けになったならよかったよ」
そういうと十代さんはまた、俺の頭を撫でた。今度は先ほどと違って、ふわりと優しく。
その表情が、とても綺麗で。少しだけ、ほんの少しだけ、この人に惹かれた。
「遊矢、そろそろ夕飯の時間じゃないのか?」
遊星さんのその言葉に、入り口の上の方にある時計を見る。もうそろそろ、母さんが心配して電話をしてきそうな時間だった。
「わ、本当だ。母さんに怒られるかも。じゃあそろそろ帰ります!」
「遊矢、また明日学校でなー!」
急いで鞄を持って、別れの挨拶をしてくる遊馬に手を振りながらドアに向かう。ドアに手をかけて、少し振り返ると十代さんと目が合った。
「また、聴きに来いよ。毎週木曜日は確実にここで歌うから」
「……はい!」
十代さんが笑って言ってくれたから、俺も笑って返す。
店の外に出て家へと急ぐ間、来週から木曜日は母さんに夜、カフェに行く許可をもらおうと考えていた。遊馬はもちろん、遊星さんのことも母さんは知っているし、週に一回ぐらいならきっと許してくれるだろう。 きっと夕飯時になるだろうから、夕飯代ぐらいはもらえたらいいな、なんて考えていると自然と足が軽くなる。
歌が聴けるから楽しみなのか、彼に会えるから楽しみなのか、それはまだわからないけど、きっと俺は十代さんに、何らかの形で惹かれているのは確かだった。
それから暫くして、このカフェで会う度にさらに深く、強く、十代さんに惹かれることになるなんて、この時は思っていなかったけど。
悩みが解決した喜びと、来週からの楽しみと、両方の明るい気持ちを抱えながら、俺は家への坂道を、駆け足で登っていった。
――――
千バト15で無配予定でした。
このときに出した『四季織々』の一年ほど前の、十代さんと遊矢くんの出会いのお話になっています。新刊を手にとって下さった方にはおいしく、手に取られなかった方にも楽しく、読んでいただけるものになっていればと思います。